第三十七回〜三十八回<バックナンバー.10>
はるみの徒然草紙




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第三十七回





  謹告


母 北村松代儀 予てより病気療養中のところ、
去る四月十六日午後七時二十分永眠いたしました。
享年八十五歳でした。
なお通夜・密葬は四月二十日、二十一日の両日で、
家族のみで執り行いました。
生前の故人に賜りましたご厚誼に深謝いたしますとともに、
ここに謹んでご報告申しあげます。

                    北村家喪主
平成十七年四月二十二日




2005年 4月22日(金)


16日の早朝、前夜の弦哲也さんの40周年ディナーショーの祝い酒の
余韻に浸っているなか、妹からの電話で召集がかけられる。
ここのところそのインターバルが徐々に短くなってきているのを気にしながら、
病院に駆けつけると、母は一応最悪の危機は脱した模様で、「大丈夫か?」と
問いかけると「大丈夫や」と返事がかえってホッと胸を撫で下ろす。
先生もこの分だと今しばらくは大丈夫でしょうとのことだったので、
介護のローテーションを確認したうえでお昼に一旦家へ戻る。

この日早暁に肩を痛めて横になっている中村を促して、
広尾の日赤医療センターへ救急外来としてふたり飛び込む。
最悪の<左鎖骨骨折>という診断。
入院日を18日の月曜日、手術日を20日の水曜日と決めて夕方帰宅。
すると程なく妹からこの日二回目の電話。
声がこれまでになく緊迫している。「姉ちゃん!早よ来て、早よ!」

母は最後の最後まで苦痛を訴えることなく、4月16日午後7時20分、
永遠の旅へと旅立ちました。
「ありがとう・・・ありがとう」が最後の言葉でした。

18日(月)から三夜連続の『BSふれあいホール』を、
母への供養のステージにする覚悟はわたしのなかですぐに出来上がりました。
初日・二日とステージが終わると、母の待つ妹の家へ直行。
20日(水)の三夜目を終えて桐ヶ谷斎場で通夜。
21日(木)朝10時から密葬。
      転院するさきざきの病院で、看護士さんたちに集まってもらっては、
      得意気になって歌って喝采を浴びていた大のお気に入りの『アンコ椿は恋の花』 
      真っ赤な椿の花で母の棺を満たし、荼毘に付しました。



思えば5年7ヶ月にも及ぶ<母の病との闘い>でした。
それは同時に、いつ終わるとも知れない<妹たちの介護との闘い>でもありました。
この間、<親子の壮絶なる闘い>に医療の面からひとかたならぬお力添えを
いただけた東大病院をはじめとした各大学病院の医師の先生・看護士の方々、
数え切れないくらいの医療機関のスタッフの方々、介護業務に巷の力として
ご協力賜った方々に、衷心より御礼申しあげます。
「ほんとうにありがとうございました。おせわになりました。」


母松代は、初夏の頃、父の待つふるさと京都へ戻ってゆくとおもいます。
40年間わたしが取りっぱなしだった母を、やっと父の許へ帰すことができます。

 「おとうちゃん、おかあちゃん、よかったなあ。やっとふたりっきりや。」








   (はるみ 第三十七回・了)



第三十八回





2005年 5月22日(日)


先週末、全姉弟妹が京都に参集し、菩提寺の御住職さまにご足労をお願いして、
故母松代の「納骨の儀」を無事滞りなく済ませました。
これで父とふたり、はじめてゆっくりと目にする比叡山の西麓の四季の移ろいのなかで
静かな眠りについてくれることと思います。

約一ヶ月ぶりのテレビの生放送、長野市での「NHKのど自慢」に岡千秋さんと出演し、
喪明後けの第一歩を踏み出して帰京した夕方、京都の弟の家から連絡があって、
なんと市川先生がこの日「ちょと移動の時間に余裕ができたので」と弟の実家、
つまりわたしの生家にお線香を手向けにいらしていたいただいたとの報。
祭壇に飾ってあった母の遺影に、何度も何度も両手(諸手)をさすりつけ何事か
つぶやきながらお参りしてくださったそうです。
その知らせを京都から受け、先生にこの東京でそんな機会を設定しなかった
家族のわがまま勝手な非礼を、夜分になって電話でお詫びしました。


哀しみは抱いたまま、そのまた哀しみの果てに煌くものを目指して、
いよいよ24日は新年度のゲネプロ。25日から新ツァーのスタートです。
新しく生まれ変わったわたしをどうぞご覧になりにいらしてください。






   (はるみ 第三十八回・了)